数年前にひょんな事から開始した独学英語ですが、学習を続ければ続ける程知らない事が次々に露呈しその度に英語の奥深さを感じる日々です。私にとってはその事自体が動機付けになっています。知らないことは多いが、何とかして少しでも理解したい、自分のものにしたいという欲求があるのです。所謂「知的好奇心」と言っても差し支えないかも知れません。
また他には、私は日々ネイティブスピーカーの英語を聴き続けていますが単に聴く事も私にとっては動機付けになりえます。どういう事かというと、(彼女ら・彼らはネイティブスピーカーなので当然でしょうが、)流暢に自在に英語を操る人たちに接し続ける事で「いつか私も」という気に駆り立てられるのです。またそれだけでなく、日々聴き続け折にふれて昔の自分を思い出すと「以前は大体聞き取れなかったのに、今は結構聞き取れるようになったな」と自分の進歩・成長を認識・確認出来ます。するとそれが良循環として回り出し「もっと成長したいから学習を続ける→続けると更に成長出来る→更に成長し快感を得て更に学習を…」という風になってきました。
他には「単純に英語を楽しむ」という点もあるでしょう。これは趣味とか好きなものに対するようなものです。人それぞれ趣味とか好きな対象はあるでしょう。そしてそれらには大体は楽しいとか嬉しいとかの感情を伴い、時間を費やしたり無心になって没入したりするでしょう。それが私と英語の間に今起こっているのです。
「好きこそ物の上手なれ」とも言います。人間好きな対象には頑張れると私は考えます。逆に「やらされ感」が支配的になればそれだけ苦痛になる恐れがあります。こと英語やその他第二言語学習には障壁があるでしょう。特に学習開始当初は好きな感情や根気が無いと辟易し苛立ち学習が停滞し最悪の場合は学習自体を辞めてしまう場合もあるでしょう。
人によってどのような動機付けが学習継続に効果的・有効かは異なる場合があるでしょう。例えば海外の友達を作りたいとか、TOEICとかの試験で高得点を目指したいとか、字幕なしでテレビや映画を観たいとか、まぁ有り体に言えば自分が英語学習に熱中したりワクワク感を抱けれるようになれば何でもいいのです。しかしこれが「最近英語ブームだから」とか「何となく役に立ちそうだから」とかの漠然とした、かつ非主体的な動機ではともすると継続は難しい場合が多いかもしれません。
グローバル化が叫ばれる今日、英語必要論と不要論が両者譲らず勃興しているようです。私の立場としては「国策として強力に推進されない限り、学習するもしないも個人の選択に委ねられる」です。それは人生の時間を何に費やすかは個人の選択であり、どうせ選択するなら自分の好きなやりたい事をすべき、という私の考えに基づいています。その基準の上で私は英語学習をする事を選択したまでです。まぁ私としては、英語力が向上すればその後の人生の発展に寄与すると考えたのも学習開始の理由の一つではあります。
では今日はこれで終わります。本日もありがとうございました。また次回の私の記事で皆さんとお会いしたいものです。失礼します、さようなら。
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